当会創設の主旨と経緯


 現在、我々は日本の生活、娯楽、文化、運動を心から楽しんでいるだろうか。
サムライ、忍者、和食、アニメ、言語、デザイン等々……日本の文化は、世界中から愛され、注目されている。しかし、その文化の担い手が、実のところ疲れ果て、重い心と身体を引きずって生きている節がある。我々の胸の底に巣食って消えない、多重的義務感と、漠然たる罪悪感、そして、「何かが違う」という感覚は、一体、どこからくるのであろうか。
以下、私個人の文化、芸術歴を紹介しながら、考えていきたい。

近年、古武術の発想と身体技術が復権しつつある。「小よく大を制す」「柔よく剛を制す」「骨主肉従」「風水の音を聞く感受力」など、今では忘れ去られ、信じない人も多い業(わざ)が、実在するのだと再認識されてきた。こうした技術は、スポーツ、日常生活、介護など様々な分野に活用されている。
 私は、文筆業を仕事としながら、柳生新陰流の剣術や手裏剣術などを稽古している。もともとは、文武両道とは縁のない芸術系の人間だった。2、3歳のころから絵を描くのが大好きで、小学校に入ると、「マンガ家か画家になりたい」と言っていた。自己紹介のときは、「絵を描くことと、歌を歌うことが好きです」と言うのが決まり文句だった。
5歳から10歳まではピアノを習い、時には歌唱も行いつつ音楽に親しんだ。7歳でクラシックバレエを始め、13歳まで、週一回、ほぼ欠かさず踊っていた。小学四年生のとき、学習塾に通い出すが、一年あまりで心身を病み、挫折。地元の公立中学校に入学し、美術部に所属して、主に絵画を描いていた。
中学の後半から高校にかけて、受験勉強をしながら、英語、国語(含:古文、漢文)の学習を通じて言語感覚に目覚め始めた。また、数学や理科からは、論理性や科学的なものの捉え方を学んだ。勉強のかたわら、家でテレビ時代劇を観るのに没頭したのは、この頃である。同時に、マンガ家、画家やイラストレーターなどになるのはあきらめてしまった。歌手やバレエリーナには、もともと真剣になろうと考えたことはなく、この時、絵からも離れたので、机上の勉学がどんどんと主体になっていった。


                        


ところが、大学に入り、知識も豊富で論理的な、学術肌の友人に囲まれると、自分が真のインテリとは程遠いことを感じた。気がつくと、サークル活動の冊子に挿絵を描いたり、趣味のカラオケにはまったり、おしゃべりで場の空気をつくったりするのがメインの存在になっていた。特に、体力と知識がないことには相当、落ち込み、「できない私」という自己イメージが生まれつつあった。

その影に押されるかのように、二十歳のときに始めたのが、時代小説の執筆である。優秀な友人達が、私の作品を読ませてくれと言い、面白いと言ってくれた。更に、読書家の人々は、どうすればより分かりやすく、小説らしくなるかを、いろいろと教えてくれた。
周囲の人間を尊敬していた私は、それらをどんどん吸収し、ある程度、形になった長篇小説を書き上げることができた。高校生くらいから、文章を書くことが比較的好きになっていた私だが、小説のように、思ったものが自由に書ける世界は格別だった。たとえられないほどの喜びを得た私は、生まれて初めて、本当に時間を忘れて夢中になり、まるで、小説を書き始めるまでの自分は眠っていたのではないか、と思うほど活き活きと創作をした。

だが、もともと文学少女でも何でもなく、ただテレビを観て、時代モノが好きなだけの自分が、プロの作家になれるとは思えなかった。時はバブル崩壊直後、まだまだ一般企業にも勢いがあり、安定した生活が望めたため、私は会社に就職する道を選んだ。そして、この後、私は決定的に「できない自分」の姿を突きつけられることになった。
慣れない東京暮らしも手伝って、私はすぐに力尽き、8ヶ月で退職した。このとき、私は、現実界のありとあらゆるものを失ったかのような心理状態に陥り、唯一、学生時代に生まれていた「小説」という虚構の世界にのみ、自分の存在意義を見出した。

小説だけを書いて生きるには……職業作家になるしかなかった。幼い頃から、いろいろな芸術を楽しみ、ある種の器用貧乏ぶりを発揮していた私は、ここで一転し、「小説以外、何もないのだ」という思いに至った。お蔭で、6年ほどのプー太郎生活を経て、無事、作家デビューを遂げた。それでも、経済的に安定しない私は、常に「ダメな私」「周りに迷惑をかける自分」というものを認識し続け、小説を書くことのほかに、何の価値も見つけられなかった。小説を書いていてさえ、それが本当に他人を愉しませているのかと不安になる。自分のようなちっぽけな作家など、いなくても誰も困らないのだ。そう思い、いつかは生きていられなくなって身を滅ぼすのだろうと感じていた。

そんな二十代の私が、小説以外に行なっていたのが武術の稽古だ。学生時代に居合道を始め、26歳で柳生新陰流・江戸形を習い始めた。同時に手裏剣術も試みるようになる。武術の稽古は好きだった。が、ここでもやはり、先生や先輩方にお世話になるばかりで、習った内容を小説に活かすのが、唯一の恩返しといった状態だった。


                     


それが──三十代になって、手裏剣術の稽古を本格的に深めたり、柳生新陰流の型の奥にある細かい理合(りあい)に気づき出したりすると、少し変化が現れた。「私は、非常に価値のあるものを学んでいるのではないか」と思ったのである。実際、日常生活においても身体の使え方がまるで変わった。歩くことも、階段や坂を登ることも、断然、楽になり、肩こりや腰痛も激減した。
武術には、多くの「省エネ運動法」が隠されている。身体技法を複雑に練り、研究していくと、それまで自分の身体が、いかに決まりきったパターンの中でしか運動していなかったかが分かる。と、いうことは、思考も心理状態も、偏った枠と順序の中でのみ展開していたのではないか、と、感づいた。武術においては、頭脳や意識、心などを身体と分けてはとらえないからだ。
そうしたことを頭で考え出してから、現実に自分の頭と心の「病」に意識を至らせるまでには、更に数年を要した。「できない」という思い込み、間違うことや他人の意向に反することへの「過剰な恐れ」などを 、稽古を通して身体で自覚し、丁寧に取り除いてゆく。「無病の身」「自由自在の身」となることが目標なのだ。これらは、しばしば武骨でお堅いと誤解されている、昔の武術者が言い残した教えである。

 ここ十年、剣豪小説の中で、随分、細かい武術の理を書き続けてきた。殊に、ここ数年は、柳生十兵衛と柳生新陰流について書きまくり、「針の穴のようなニッチ産業」と言われたりした。古武術を題材としてエッセイなども書き、あたかもその道の専門家のようになっている。ようやく、武術の理や感覚は、役に立つものだという確信が得られるようになった。そして、その一部を理解したり、表現している自分も、いくらかは存在意義のある人間なのだろうと、思い始めている。稽古の現場においても、初心者や後輩には指導できる立場となった。
 虚構の世界のみに生き、「現実社会では、何もできない私」という強烈なとらわれが、氷解しつつある。「できない」というブロックが外れ出すと、面白いことが起こり始めた。趣味として、長年続けているカラオケを、少し発展させて、生でも歌えないかと考えた。すると、意外によい反応があったりする。歌にも、武術の稽古で学んだ身体技術はフル活用してきたので、十代の自分よりはずっと自在な声が出るのは間違いない。また、久しぶりに絵を描いてみようと思って描くと、人に気に入ってもらえたりした。今では、イラストソフトに目覚め、小説並みに熱中してキャラクターなどを創る日もある。パソコンにおいても、「こんなソフトを使うのは無理だろう」などという思い込みが、急速に減ってきた。
 小説と武術に専念してきたはずの私が、気づけば他のことを嬉々としてやっている。これは、「諸芸は相通ず」の証に違いないと思った。逆にいえば、武術というものを「戦いの手段」として極めることには、抵抗があり、多くの壁もある。私には不向きだと感じているのだ。私は、侍が大好きだが、今現在、武士であろうとする必要はない。一方、身体芸術や文化としてならば、他者と優劣や強弱を争うこともなく、皆で楽しめ、かつ、一生、高め続けられるだろう。


                        


 私は、武術を通して、「技芸の深め方」を学んでいるのだと思う。具体的な技術に差はあっても、取り組む姿勢は皆、共通している。果てしない奥をたずね、病的なとらわれを脱し、子どものように無垢な心と、熟練者の落ち着きを、同時に求める。そして、芸の質を見る目、和の美しさを感得する神経などを磨いでゆく。
私は幸い、優れた武術者だけでなく、芸術家とも深く交流をしている。そこで得たものをすべて吸収し、すべて表現していくつもりだ。
しばしば、日本の文化を学ぶ、などというと、堅苦しいことや、覚えることが多いと連想されるだろう。私も、以前はそのイメージが強かった。だが、私は、文化を勉強するのではなく、「自ら行なう」ことで、浅からぬ楽しみを得てきた。小説家は、よく作品のテーマに添って取材をするというが、私は、ほとんど特定の取材をしたことがない。いつも、自分が当事者として稽古や研究、自覚をし、素で出会う人達を観察したり、生の対話を繰り返すことで、何かを感じ取る。それは、小説だけでなく、諸芸すべての糧となり、生きるための指針ともなるのだ。

和の芸術には、本来、「こうしなければならない」というものは、特にないようだ。偏った動きや、病的な硬直状態さえ避ければ、あとは自由である。否、むしろ、自由であることが必須なのかもしれない。不自由な思考、不自由なものの見方、不自由な心身では、喜ぶべきときに、素直に喜ぶことすらできない。楽しむこともできない。そんな状態で、娯楽を提供しても、受け取っても、それは単なる情報のやりとりに終わり、互いに疲れ、癒されない。
例えば、「これは五年もかけて撮った映画だから、さすがにすごい」とか、「この絵は、何という絵の具で描いたんですか」とか、「この芸術写真は、どこで撮ったものですか」とか、「この作家は無名じゃないんですか」「いえ、有名ですよ」「それは失礼しました」とか……。まず、自分が感じるもの以前に、そういう会話が飛び出し、ひどければそれで話が終わってしまう。あるいは、作品の難点ばかりを語って、さも、自分は目が肥えているという風を装ったりする。
確かに、作品や芸から感じることをストレートに言えば、自分の感性が顕(あら)わになる。が、自分を隠したり、作品の本質から目を逸らしている限り、真に味わい、楽しむことはできないのではないか。こんな実情は、ぜひ見直すべきだと思う。

私は最近、能や舞いなどを見るのが好きだが、それは、自分の目で、舞う人の足さばきなどを見て、芸の特徴をそのまま感じ取り、楽しめるようになったからだ。また、伝統芸能としての決まりにとらわれず、「ああ、何と綺麗な装束だろう」「この色あわせは絶妙だ」とか、「楽器がどんどん音を重ねてゆく感じは、武術の技の勢いのつけ方と同じようだ」などと、好き勝手なことを考えながら観賞しているから、飽きないのだと思う。
また、古武術とは相容れない動きといわれるスポーツの世界にも、今は大いに興味がある。例えば、サッカーの一流選手が見せる離れ業には、「浮き身」や「捨て身技」、「四方正面」等々、武術の要素が溢れている。また、フィギュアスケートの華麗な身のこなしなども、武術的感覚でみると、至極、納得させられることが多い。どの競技でも、できる選手には共通点があるということも分かってきた。そのラインから外れて成功している選手は、残念ながら身体を痛めているようだ。
これらを真剣に観ると、自分の稽古の参考にもなり、他人事とは思えない。スポーツ解説者の表現も一字一句参考にするし、時には、「その言い方は、動きの印象と違うな」と、心の中で疑問を投げかけたりもする。全く、好き放題な視聴者だ。
このような訳で、私が、人前で武術の演武を行なったりするときも、見る人々には、好きなように、心を開いてみて欲しいと考えている。できれば、ご自身で体験して欲しい。そのためには、過剰なジャンル分けや格付け、知識の付加などを行なわない形で、芸事を楽しむ場が必要である。
実際、柳生新陰流で、公開稽古や体験会を行なうと、多くの人々が袋竹刀を握って楽しみ、活き活きとされている姿が目立つ。その後、すぐに入門する人もいるほどだ。

「やってみたい」という心を抑圧すべきではない、と私は思う。私は、文化系だったが、日本刀を抜く居合道というものをやってみたかった。柳生新陰流の剣術もやってみたかったし、手裏剣も打ってみたかったし、いろいろな歌も歌いたかった。テレビしか観ていなかったけれども、小説を書いてみたかったし、作家で食べていけるようになってみたかった。
今更のように、絵が描きたくなったし、これからは、もっと現実的な、生の文化活動にも力を入れてみたい。どれも、客観的に見れば、できるかどうか分からないことばかりだ。むしろ、できそうにないことのほうが多いかもしれない。しかし、試す価値はあるのだ。主体性のないところに、深い喜びはない。

和の武芸文化会では、武術を中心とした諸芸を、観たり体験したりする機会を提供する。できる限り新鮮な視点を加えるべく、「普通の言葉」で解説等を行なうつもりだ。また、文章や絵なども、適宜、発表できればと考えている。
そして、会員各位には、自分自身の興味に応じて、好きな部分を取り入れ、好きな形で、好きな道に活かしていただきたい。こんなことがしたい、あんなことがやってみたい、などなど、何でもご提案願いたい。

 なお、他ページと重複するが、当会は、剣豪・柳生十兵衛の生誕400周年を記念して創設するものであり、柳生新陰流(江戸形)兵法の「切らず、取らず、勝たず、負けざる」剣という教えを軸にすえる。「和」と「平らかさ」を重んじ、「自由」な心身を得るべく、優劣や強弱にとらわれない技芸の発展と活用をめざしたい。
 

                                    2007.1.1 代表 多田容子                          








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